ヴィッセル神戸の山口蛍が来季からJ2のⅤ・ファーレン長崎でプレーすることが決まった。神戸在籍6年。クラブが暗中模索を続けた中で、進むべき道を照らし続けた“蛍”の功績はクラブ史の中でも特別の輝きを持っていた。
2017年途中に元ドイツ代表のルーカス ポドルスキを獲得した神戸は翌18年途中に元スペイン代表のアンドレス イニエスタを迎え急ピッチで改革を進めた。翌19年にはワールドカップ得点王を経験するダビド ビジャを加え、シーズン途中にはベルギー代表のトーマス フェルマーレンと酒井高徳も加入。後にクラブ初タイトルの天皇杯優勝をもたらす“銀河系軍団”はわずか2年の超大型補強で誕生した。
その大きな流れの中で、山口は19年に完全移籍で神戸にやってきた。同時期にセレッソ大阪へ移籍した元神戸の藤田直之(今季をもって引退)と、半ばトレードのような形で加入したこともあり、当時は“禁断の移籍”と揶揄されることもあった。
山口の神戸加入は新加入会見で「なくはないですけど…(笑)」と話したようにイニエスタの存在が大きかった。だが、最終的な決断は「やっぱりこのチームのプロジェクトや、めざすところに共感したのが一番大きい」という。プロジェクトとは堅守速攻からの脱皮。そしてメディアが“バルセロナ化”と騒いだ攻撃的ポゼッションサッカーへの移行である。それをもって向かうのは国内タイトルを通過点としたアジアNo.1。山口が加入した時点でクラブの最高成績はJ1リーグ7位だったことを考えると、壮大なプロジェクトだったと言えるだろう。
印象深いのは2019年の新加入会見で山口が語った言葉である。サポーター参加型の会見でこう発言している。
「サポーターの方にとって僕の印象は関西のライバルのセレッソ大阪のイメージが強いと思いますし、すぐには受け入れてもらえないのかなと思いますけど(サポーターから“そんなことない”などの声が飛ぶ)、本当にこのクラブに来られて光栄ですし、しっかりプレーと結果で示して、1日でも早くサポーターの方に認めてもらえるように頑張りたい。ヴィッセル神戸とともに高みをめざして頑張りましょう」
さらに質疑応答の時間には、神戸のユニフォームを着た感想と得意なプレーを聞かれてこう答えている。
「(ユニフォームについては)やっぱり違和感はあるんですけど…(笑)。本当にこのユニフォームが似合う選手になりたいと思います。(得意なプレーについては)これといったものを挙げることはできないんですけど、チームが危ないなと思った時に常にそこにいるとか、やはりチームを助けられるようなプレーをしたいと思います」
この時の発言は全て現実のものとなった。ファン・サポーターから愛される存在となり、高いリスク管理能力でチームを救い続け、クリムゾンレッドのユニフォームを着た山口はノエビアスタジアム神戸のピッチで映えていた。
山口が過ごした神戸の6年間はまさに激動だった。加入1年目の2019年はフアン マヌエル リージョ監督にはじまり、吉田孝行監督、トルステン フィンク監督と指揮官がころころと変わる混迷期だった。その中でイニエスタの頼れる右腕であり続け、またチームの心臓として屋台骨を支えて天皇杯の頂点へと導いている。ポドルスキ、イニエスタ、ビジャ、フェルマーレン、古橋亨梧、酒井高徳といった強烈な個性がうまく連動できたのは、潤滑油として山口が居たからだろう。
ACL出場権を経て迎えた翌2020年は新型コロナウイルス感染拡大に影響を受けた1年だった。J1リーグは2節以降が中断となり、7月に再開されたものの必然的にカレンダーは超過密日程を余儀なくされた。さらに9月にはフィンク監督が自ら退任し、スポーツダイレクターの三浦淳寛氏が後任監督に。ACLは初出場でベスト4と好成績を残した一方でリーグ戦は14位と低迷した。引き続き三浦体制で迎えた2021年はリーグ戦15ゴールと好調だった古橋亨梧が夏の移籍市場でセルティックへ。エース不在が不安視されたが、大迫勇也、武藤嘉紀、ボージャン クルキッチの加入で外野の声を一蹴。クラブ史上最高のJ1リーグ3位でフィニッシュし、再びACL出場権を獲得する。だが、翌2022年は開幕から11戦未勝利で三浦監督の契約を解除。4月にロティーナ監督を迎えたが成績が好転せず6月末には吉田孝行監督が指揮を執ることになった。J2降格の危機に直面していたチームを立て直した吉田監督は、シーズン終盤の5連勝などで最低ノルマのJ1残留を果たした。
そして2023年にはイニエスタ退団という悲しい出来事があった一方で、クラブ史上初のJ1リーグ優勝を勝ち取る。さらに2024年は天皇杯優勝とJ1リーグ連覇という2冠も達成した。
堅守速攻からポゼッションへ、さらに現行のハイプレスサッカーへとスタイルが移りゆく中で、山口は常にハイクオリティのプレーを続けていた。
その中で山口の存在感が少しだけ薄れていた時期がある。今季の中盤から終盤にかけてのリハビリ期間中だ。
8月下旬の練習中に左膝外側半月板損傷、左大腿骨外顆軟骨損傷の大怪我を負った。考え抜いた末に、彼は手術を選択する。ここから長いリハビリ生活に入った。それを経て復帰した11月7日の公開練習時、山口は手術に至った経緯をこう説明した。
「もともと復帰まで焦るつもりはなかったですし、それだったら手術もしていなかったです。シーズンの最後にはチームに戻って来られるという確信があった中で踏み切った。34歳ですけど、まだまだJ1でできるし、自信もあるので、これからのサッカー人生を考えた中でベストなタイミングで手術できたと思っています」
ただ、結果的には試合勘やゲーム体力などの面でトップフォームに戻る前にシーズンが終わってしまった。11月のACLE・CCマリナーズ戦で4カ月半ぶりに先発出場した山口は、勝利に貢献したものの少し表情を曇らせていた。
「でき上がっているチームの中にまた入っていかないといけない中で、そこに合わせて自分のパフォーマンスを持っていかないといけない。その難しさは多少ありましたけど、試合にスタートから出られたということだけが、とりあえず良かったです」
リーグ連覇を決めた最終節。ベンチスタートの山口は87分からピッチに立った。そしてシーズン最後のセレモニーでは涙ながらに神戸のファン・サポーターに感謝の言葉を述べた。激動の6年間が頭の中を駆け巡ったのかもしれない。「チームを助けられるようなプレーをしたい」。その言葉通りチームを支え続けた神戸での6年間だった。
Reported by 白井邦彦
2017年途中に元ドイツ代表のルーカス ポドルスキを獲得した神戸は翌18年途中に元スペイン代表のアンドレス イニエスタを迎え急ピッチで改革を進めた。翌19年にはワールドカップ得点王を経験するダビド ビジャを加え、シーズン途中にはベルギー代表のトーマス フェルマーレンと酒井高徳も加入。後にクラブ初タイトルの天皇杯優勝をもたらす“銀河系軍団”はわずか2年の超大型補強で誕生した。
その大きな流れの中で、山口は19年に完全移籍で神戸にやってきた。同時期にセレッソ大阪へ移籍した元神戸の藤田直之(今季をもって引退)と、半ばトレードのような形で加入したこともあり、当時は“禁断の移籍”と揶揄されることもあった。
山口の神戸加入は新加入会見で「なくはないですけど…(笑)」と話したようにイニエスタの存在が大きかった。だが、最終的な決断は「やっぱりこのチームのプロジェクトや、めざすところに共感したのが一番大きい」という。プロジェクトとは堅守速攻からの脱皮。そしてメディアが“バルセロナ化”と騒いだ攻撃的ポゼッションサッカーへの移行である。それをもって向かうのは国内タイトルを通過点としたアジアNo.1。山口が加入した時点でクラブの最高成績はJ1リーグ7位だったことを考えると、壮大なプロジェクトだったと言えるだろう。
印象深いのは2019年の新加入会見で山口が語った言葉である。サポーター参加型の会見でこう発言している。
「サポーターの方にとって僕の印象は関西のライバルのセレッソ大阪のイメージが強いと思いますし、すぐには受け入れてもらえないのかなと思いますけど(サポーターから“そんなことない”などの声が飛ぶ)、本当にこのクラブに来られて光栄ですし、しっかりプレーと結果で示して、1日でも早くサポーターの方に認めてもらえるように頑張りたい。ヴィッセル神戸とともに高みをめざして頑張りましょう」
さらに質疑応答の時間には、神戸のユニフォームを着た感想と得意なプレーを聞かれてこう答えている。
「(ユニフォームについては)やっぱり違和感はあるんですけど…(笑)。本当にこのユニフォームが似合う選手になりたいと思います。(得意なプレーについては)これといったものを挙げることはできないんですけど、チームが危ないなと思った時に常にそこにいるとか、やはりチームを助けられるようなプレーをしたいと思います」
この時の発言は全て現実のものとなった。ファン・サポーターから愛される存在となり、高いリスク管理能力でチームを救い続け、クリムゾンレッドのユニフォームを着た山口はノエビアスタジアム神戸のピッチで映えていた。
山口が過ごした神戸の6年間はまさに激動だった。加入1年目の2019年はフアン マヌエル リージョ監督にはじまり、吉田孝行監督、トルステン フィンク監督と指揮官がころころと変わる混迷期だった。その中でイニエスタの頼れる右腕であり続け、またチームの心臓として屋台骨を支えて天皇杯の頂点へと導いている。ポドルスキ、イニエスタ、ビジャ、フェルマーレン、古橋亨梧、酒井高徳といった強烈な個性がうまく連動できたのは、潤滑油として山口が居たからだろう。
ACL出場権を経て迎えた翌2020年は新型コロナウイルス感染拡大に影響を受けた1年だった。J1リーグは2節以降が中断となり、7月に再開されたものの必然的にカレンダーは超過密日程を余儀なくされた。さらに9月にはフィンク監督が自ら退任し、スポーツダイレクターの三浦淳寛氏が後任監督に。ACLは初出場でベスト4と好成績を残した一方でリーグ戦は14位と低迷した。引き続き三浦体制で迎えた2021年はリーグ戦15ゴールと好調だった古橋亨梧が夏の移籍市場でセルティックへ。エース不在が不安視されたが、大迫勇也、武藤嘉紀、ボージャン クルキッチの加入で外野の声を一蹴。クラブ史上最高のJ1リーグ3位でフィニッシュし、再びACL出場権を獲得する。だが、翌2022年は開幕から11戦未勝利で三浦監督の契約を解除。4月にロティーナ監督を迎えたが成績が好転せず6月末には吉田孝行監督が指揮を執ることになった。J2降格の危機に直面していたチームを立て直した吉田監督は、シーズン終盤の5連勝などで最低ノルマのJ1残留を果たした。
そして2023年にはイニエスタ退団という悲しい出来事があった一方で、クラブ史上初のJ1リーグ優勝を勝ち取る。さらに2024年は天皇杯優勝とJ1リーグ連覇という2冠も達成した。
堅守速攻からポゼッションへ、さらに現行のハイプレスサッカーへとスタイルが移りゆく中で、山口は常にハイクオリティのプレーを続けていた。
その中で山口の存在感が少しだけ薄れていた時期がある。今季の中盤から終盤にかけてのリハビリ期間中だ。
8月下旬の練習中に左膝外側半月板損傷、左大腿骨外顆軟骨損傷の大怪我を負った。考え抜いた末に、彼は手術を選択する。ここから長いリハビリ生活に入った。それを経て復帰した11月7日の公開練習時、山口は手術に至った経緯をこう説明した。
「もともと復帰まで焦るつもりはなかったですし、それだったら手術もしていなかったです。シーズンの最後にはチームに戻って来られるという確信があった中で踏み切った。34歳ですけど、まだまだJ1でできるし、自信もあるので、これからのサッカー人生を考えた中でベストなタイミングで手術できたと思っています」
ただ、結果的には試合勘やゲーム体力などの面でトップフォームに戻る前にシーズンが終わってしまった。11月のACLE・CCマリナーズ戦で4カ月半ぶりに先発出場した山口は、勝利に貢献したものの少し表情を曇らせていた。
「でき上がっているチームの中にまた入っていかないといけない中で、そこに合わせて自分のパフォーマンスを持っていかないといけない。その難しさは多少ありましたけど、試合にスタートから出られたということだけが、とりあえず良かったです」
リーグ連覇を決めた最終節。ベンチスタートの山口は87分からピッチに立った。そしてシーズン最後のセレモニーでは涙ながらに神戸のファン・サポーターに感謝の言葉を述べた。激動の6年間が頭の中を駆け巡ったのかもしれない。「チームを助けられるようなプレーをしたい」。その言葉通りチームを支え続けた神戸での6年間だった。
Reported by 白井邦彦